2013年4月11日木曜日

本棚はアルバム

学生時代に乱読した。
ジャンルだけでなく、趣味というか文化的境界のようなものまで、ぐいぐい横切って読んだ。
ある時、溜まった本をまとめて処分した。一人暮らしなので、大量の蔵書に埋もれて生きることを覚悟するか、選び抜いたお気に入りを楽しむことにするか、選ぶ必要に迫られたということもある。でも一番の理由は、自分が読んできた理由そのものが不要になったから、または自分の読書につきまとっていた自意識が、鼻につくようになったからだ。

なんだか知識や、趣味や、個性みたいなものを懸命にひけらかし、それを鏡に映して足りない自信の埋め合わせをしたがっているように感じられた。
部屋に満ちていた本は、わずか数冊に減った。勢い余って良書をずいぶん失った。

そんな時代もすっかり過去になった。大人になった今はまた自由に読んで、しばらくすると適当に手放して、50冊くらいをキープしながら勝手気ままに読書を楽しんでいる。風通しがいい。これでよかったんだと思う。

ところが時々不意を打たれる。
書店で目に留まった背表紙。覚えがある。そうだ、昔読んだじゃないか。
古い文庫本の、巻末の広告に懐かしいタイトルを見つけて狼狽する。そうだそうだ、こんなにはっきり覚えている本なのに今の今まで忘れていた。
どうして手放してしまったんだろう。

自宅の本棚に並んだ本たちは、アルバムに貼られた写真のようなものかもしれない。朝に夕に眺めていれば内容も思い出し、生きた記憶であり続ける。
本を処分してしまうことは、もしかしたら写真を焼いてしまうことと同じではないか。記憶を捨ててしまうことではないか。
手放した本を買いなおしても、汚れ具合やカバーの破れや、そういったディテールが失われていればそれはどこまで行っても別物だ。

一方で、記憶を形に残しておかなくても構わないとも思う。
体験して、頭だか体だか心だかに刻み込まれて、それでいいではないか。忘れてしまったとしてもいいではないか。そんなに大切なことだとしたら、きっとそのうち思い出すだろう。
実際そうやって暮らしてきた。そのやり方が性に合っている。

それでも仕掛けられたトラップは時々発動して、僕をうろたえさせる。
人ごみの中に見つけた、誰かの顔のように。