2017年10月3日火曜日

水彩

歳を重ねる度に、自分にはできないこと、必要ないことが見えてくる。
あきらめることが増える。
でもそれは裏返せば、できることの輪郭がはっきりしてくるということだ。
少しだけ世界のフォーカスが合い、領分が明確になるということだ。

若いうちは判別がつかないから、魅かれるものを追い続けるばかりで、自分の姿形は溶けて流れてしまう。あやふやに、自由に。あいまいに、透明に。
たよりなく美しい。

そんな季節は過ぎてしまった。
足に合う靴を選んで、今までより少し濃い影を落として歩いてゆく。

さよなら。
固い大地を踏みしめるほどに遠ざかり見えなくなる。

2016年12月11日日曜日

失われていないものが

慌ただしい日々が続き、立ち止まりゆっくり思い巡らせることもできずにいると、思い出す文章がある。
プロの手によるものではない。中学生の時、音楽の先生が文集に寄せていたエッセイだ。
まだ経験の浅い、地味な女の先生で、授業の最後に少し時間が余ると、となりのトトロとか、魔女の宅急便とか、みんなが知っている曲をピアノで弾いて聞かせてくれるような人だった。

子供の頃はあんなに感受性が豊かだったのに、もうすっかり失われてしまった。そんな書き出しだった。お祭りのあと、祭りの飾りが電線にひっかかっているのを見て物寂しく感じたような気持ちが、今の自分には見当たらない。あの頃の感性はどこへ行ってしまったのか。

そう思うようになったある日、電車に乗って東京まで音楽を聴きに行ったそうだ。そしてオーケストラの音がホールの天井から降り注いできた時、先生は頬に伝うものを感じて確信を得る。
ああ、まだ自分には失われていないものがある、と。


最近は仕事が忙しくて、ライブハウスに足を運ぶこともままならなかったけれど、ようやく時間が取れたので、好きなバンドを聴きに下北沢まで出かけた。客でいっぱいのフロアに、高い音圧で激しいロックがあふれ出す。そうだよ、この曲が好きだったんだ。何度も何度も聞き込んだから、自然と歌詞が口を突いて出る。僕はうつむいて、時折客席を照らし出す照明の陰で、ジーンズの後ろポケットを探る。

しまった。急いで家を出たから、ハンカチを忘れてしまった。

2015年5月25日月曜日

横顔

ある市民管弦楽団のリハーサルに、手伝いで参加した時のこと。
自分が座るトロンボーンの席の斜め前方、チェロ奏者たちの中にその横顔を見た。
なんて嬉しそうに弾くんだろう。つつましく穏やかな微笑みで。
ずっと言葉が見つからなかったけれど、やっと分かった。そう、彼女は音を慈しんでいた。

日々の生活や、やるべき仕事に煩わされるようにではなく、曲を奏でていた。
小さな声に耳を澄ませるように。
目を閉じて思い巡らせるように。

しかし考えてみると、僕にはその人の音が聞こえていなかったはずだ。
狭い練習部屋に飽和した合奏の中から、一人のチェロの音を判別できるわけがない。
それなのになぜ、琴線に触れる演奏を聞き取ったような気がしたのか。

そして、どんな顔立ちだったか実は覚えていない。目も鼻も口も、髪型も。
あの人はいったい何者だったのか。

それは音楽の横顔。
透明な水の向こうに揺らめく、遠い面影。

2013年4月11日木曜日

本棚はアルバム

学生時代に乱読した。
ジャンルだけでなく、趣味というか文化的境界のようなものまで、ぐいぐい横切って読んだ。
ある時、溜まった本をまとめて処分した。一人暮らしなので、大量の蔵書に埋もれて生きることを覚悟するか、選び抜いたお気に入りを楽しむことにするか、選ぶ必要に迫られたということもある。でも一番の理由は、自分が読んできた理由そのものが不要になったから、または自分の読書につきまとっていた自意識が、鼻につくようになったからだ。

なんだか知識や、趣味や、個性みたいなものを懸命にひけらかし、それを鏡に映して足りない自信の埋め合わせをしたがっているように感じられた。
部屋に満ちていた本は、わずか数冊に減った。勢い余って良書をずいぶん失った。

そんな時代もすっかり過去になった。大人になった今はまた自由に読んで、しばらくすると適当に手放して、50冊くらいをキープしながら勝手気ままに読書を楽しんでいる。風通しがいい。これでよかったんだと思う。

ところが時々不意を打たれる。
書店で目に留まった背表紙。覚えがある。そうだ、昔読んだじゃないか。
古い文庫本の、巻末の広告に懐かしいタイトルを見つけて狼狽する。そうだそうだ、こんなにはっきり覚えている本なのに今の今まで忘れていた。
どうして手放してしまったんだろう。

自宅の本棚に並んだ本たちは、アルバムに貼られた写真のようなものかもしれない。朝に夕に眺めていれば内容も思い出し、生きた記憶であり続ける。
本を処分してしまうことは、もしかしたら写真を焼いてしまうことと同じではないか。記憶を捨ててしまうことではないか。
手放した本を買いなおしても、汚れ具合やカバーの破れや、そういったディテールが失われていればそれはどこまで行っても別物だ。

一方で、記憶を形に残しておかなくても構わないとも思う。
体験して、頭だか体だか心だかに刻み込まれて、それでいいではないか。忘れてしまったとしてもいいではないか。そんなに大切なことだとしたら、きっとそのうち思い出すだろう。
実際そうやって暮らしてきた。そのやり方が性に合っている。

それでも仕掛けられたトラップは時々発動して、僕をうろたえさせる。
人ごみの中に見つけた、誰かの顔のように。

2012年12月13日木曜日

私もまた星座

去年の秋に「歴史とは星座」というエントリを書いた。
歴史とは、過ぎ去った沢山の出来事から何かを選択して、関連づけ、物語を描き、現在につなげたもの。その作為は星座をつくることに似ている、と。

それなら、この「私」もまた星座にすぎない。
私の過去とは、実際にあった数えきれない出来事から私が選択した物事を、私が関連づけ、私が物語り、私の現在に結びつけたものだ。
記憶、個人史、半生記。歴史そのもので、星座そのものだ。

忘れてしまったことを思い出す。
影になっていたことに光を当てる。
大きく見えていたことの大きさを疑う。
違う点と点を結んで違う形を描いてみる。
違う星座を形作り、違う人生を語る。
すると違う私が現れる。

最近、昔のことを考える。子どもの頃。学生時代。数年前。
何をしていたっけ。何を考えていたっけ。どんな私だったっけ。
何をしていたと思っていたっけ。何を考えていたと思っていたっけ。どんな私だったと思っていたっけ。
そして。違う私が現れるだろうか。

2012年4月24日火曜日

学生の頃、チラシのデザインだけをきっかけに、美大の学生演劇を見に行ったことがある。真っ白な紙の右上から左下に向かって、細い3本の弧。それぞれ離れた地点からやってきて、ゆったりとしたカーブを描き、交差して、また離れていく。
芝居のチラシにしてはミニマルな図柄に魅かれ、会場に足を運んだ。

登場人物は、ルームシェアをして暮らす20代の女性たち。彼氏と恋愛中の文学部の大学院生、鍵のかかる日記帳を持った情に厚い女の子、夢を追いかける女優の卵。親友なんだから何でも相談し合って暮らして行こうね、と誓い合う仲。

ところが、やがてお互いに秘密を抱えていることが分かってしまう。
最近彼氏が冷たいと愚痴る大学院生を本気で心配する日記帳の女の子。しかし大学院生が毎日のように彼氏にかけていたはずの電話の相手は時報で、幸せな自分を演じていただけだった。
そんな嘘に怒る女の子の日記帳の中身は、大学院生の生活のストーキング。実は同性愛者で彼女を愛していたが、それを言いだせないまま架空の彼氏に嫉妬心を燃やしていた。
そんな2人の秘密を責める女優の卵は、しかし自分の部屋に彼女達を絶対に招かない。実は女優志望というのは周囲の期待に答えようとしていただけで本心ではなく、子供の頃から他人の意見に合わせて生きてきたため自分を見失い、心の叫びを壁に殴り書きした真っ暗な部屋で膝を抱える毎日。

そんなの本当の愛じゃない、そんなの本当の自分じゃない。相手の嘘を糾弾すると、そのまま刃が自分に返ってきてしまう。かさぶたを剥がし合うようにして、その結果やっと鎧を脱ぎ捨てる事ができた3人は、最後に素直な自分を取り戻してそれぞれ本当にやりたいことを見つける。でもそれは今の共同生活の終わりを意味していた。

青臭い筋かもしれないけれど、嘘を暴き合うプロットが上手く練られ、等身大のテーマと向き合う役者達の演技も良く、とても心を動かされた。

帰りがけにチラシを取り出して気がついた。ああ、これはそういう意味だったのか。

こんなに切迫した局面でなくてもいい。友達との共同生活に限った話でもない。
どんなものであれ一つの時代を共に過ごしながら、やがてそれぞれの道へと散って行った人々、その出会いの不思議を思う時、今でも僕の頭の中にはA4サイズの白紙が現れ、数本の弧が流れて交わり、ゆっくりと広がり別れていく。

2012年3月10日土曜日

不安について/イメージの軍勢

人を、または人の集団を都合のいいように操ろうと企む場合の、安易な方法。それは「不安にさせる」こと。

どんなに強く大きなものも不安になると脆いからだ。じっとしていれば守りは堅いのに、動揺すると無駄に動き回り隙ができる。リスクの見積もりは狂い、武器は手から滑り落ち、バランスを失って自壊する。

だから草食獣の群れを襲うハイエナも、難攻不落の城を攻める知将も、海千山千の詐欺師も、正面からぶつかる前にじっくりと相手を観察し、混乱させて崩す作業から取りかかる。

逆に崩されないためには不安に支配されないことが大切。不安を感じることそれ自体は、危機を察知するためにむしろ必要な能力だけれど、単になんとなく不安だからという動機だけで行動して、上手くいった試しが無いと思う。こちらを崩そうとする誰かの意図が働いている場合はなおさら。

不安にさせられることを、「直近の未来について悪いイメージを持たされる」と言い換えてもいい。それなら良いイメージを作り出し、保持することで対抗できるかもしれない。
それは現実逃避という意味ではないし、ポジティブ思考だけで全てがうまくいくという極端な楽観論でもない。もっと基本的な原理、自ら思い描くことの方に進むこと。持ち物を思い出すこと。主導権を渡さないこと。

ふと、優れた幻視をするSF作家の小説を思い出す。
絶大なタレントを持った超能力者たちがイメージの軍勢を戦わせ、世界を作り替えていった。

2010年12月9日木曜日

塩沢先生

ヘチマの絵を描いた時の先生、と言えば、小学校三年の時の同級生はけっこう覚えているんじゃないかと思う。担任の塩沢先生は図工の先生だった。

小柄で眼鏡をかけた、どちらかと言えば寡黙な男の人で、大声で笑ったり、逆に声を荒げたりするタイプではなかった。でもクラスはなんとなくまとまり、大きく乱れることがなかった。

授業で絵を描く時には、「もっとよく見てごらん」と言い続けていたように思う。
小学生はそれほど奔放でも自由でもない。花の絵といえば、男の子は大雑把な、女の子はいかにも漫画に出てきそうな花を描いている。それでいいと思って先生の所に見せにいくと、静かな口調で、しかしぜんぶ駄目出しを食らうのだ。
花びらの真ん中のところが、どうなっているかよく見てごらん。葉っぱの先っぽが、どうなっているかよく見てごらん。

ある時、校庭の隅で栽培していたヘチマの絵を描くことになった。ヘチマなんて変なの、と子供心に思ったのを覚えている。ところがこれは大仕事になった。

ヘチマは緑だと思って緑の絵具で塗りつぶすと、先生は首を横に振る。もっとよく見てごらん。それぞれの子供に少しずつヒントを与えながら、青や、黄色や、茶色や、灰色や、いろんな色に気づかせていく。赤や白や黒を塗り重ねていくうちに、ヘチマの緑はどんどん面白くなっていく。
やがて構図に注文をつけ始める。ここの隙間に何か描いてごらん。ヘチマのツルや、友達の顔。最初に大きく描くように言われた実や葉の間から、丸まったツルや、子供の手足や目鼻がのぞくようになると、いつか画面には動きと奥行きが生まれている。

そしてクラスに変化が起きた。絵がうまいのはあの子とあの子、と相場が決まっていたはずが、その序列が崩れてきたのだ。運動は得意だけど不器用だと思われていた子や、漫画は上手いけど授業ではあまり評価されてこなかった子が頭角を現し、結局すごい絵を描きあげた。そのうち何人かの描いたヘチマは、大きく引き伸ばされて市の施設の天井にぶらさがった。